京都新聞朝刊に弊社元従業員の記事が掲載されました
2018/08/10
2018年8月10日付け京都新聞朝刊「同い年の戦後」に、弊社元従業員の吉田信夫さんのインタビューが掲載されました。
同い年の戦後 復興見つめ ハンドル握り
大阪府高槻市で生まれ育ちました。実家は農家で幼い頃から農家の手伝いばっかりでしたわ。戦時中はB29がよく高槻上空を通ったんで警戒警報が鳴ると防空壕に退避しました。田舎でしたが、供出を強制され保有米はほとんどなかった。昭和天皇が車で高槻の近くを通過しはるというんで、国道脇で土下座してお迎えしたこともありましたな。
終戦の日は、大人が「戦争に負けた」と言うのを聞いて、当時はとにかく衣食が不足していたので「これからどうなるんやろ」と不安でいっぱいでした。開放感とかはなかったですね。
僕は車が好きやった。一日も早く運転を覚えようと、中学卒業後、京都市に通ってトラックの助手をしました。当時は木炭車で、荷物も手積みやったから助手の仕事があったんです。助手席の真裏にある釜でクヌギの木炭を燃やしてガスを起こした。車を走らせながらでも釜に木炭を入れてましたよ。復興期で、材木から石炭、セメントなどいろんな物を運びました。石炭は梅小路の操車場で貨物列車からトラックに積み替えた。セメントは大阪港まで取りに行った。あの時分、港湾労働者は気が荒くてね。僕ら10代の若造がもたもたしとったら「帰れっ」ちゅうようなもんでした。
当時は20歳からタクシー乗務員になれました。彌榮(やさか)自動車の求人広告を見て面接を受けたんだけど、就職難でね。本社に100人くらい面接に来ていた。1953年に入社して、円町(中京区)で下宿し始めました。
-吉田さんのドライバーとして58年超の勤務期間は彌榮自動車の最長記録だ。
入社当時の営業車両は2枚ドアの小型車「ダットサン」。助手席のシートをいちいち倒して客を乗せた。アクセルを踏んでも加速しなくてね、40キロも出したら同僚に「お前、飛ばしすぎやな」と言われました。
ラーメン1杯が40円くらいの時代に初乗り料金が60円。朝鮮戦争から復員して京都駅前のホテルに泊まっていた米軍人をよく乗せた。運転手同士で英語を勉強してね。戦時中に建物疎開があった五条通や堀川通なんかはまだ砂利道でした。散水車が1日3回ほど水を
まいていたが、それでも車はほこりだらけになりましたよ。
高度成長期の昭和30年代後半から40年代が一番景気が良かったですね。タクシー乗り場はいつも客の行列だし、河原町通や四条通を走ればあちこちで手が上がった。運転手は長距離の客を探そうとするんで乗車拒否が問題になりました。
組合活動も盛んだった。忘れられないのが1961年の「100日スト」。組合は完全月給制や事故時の保障を要求したが、会社側と交渉が決裂してストに突入した。京都の主なタクシー会社の組合が参加して3月末から97日間続いた。京都の街でタクシーの姿が激減したんじゃないかな。僕はスト破りを防ぐため本社社屋のシャッターを下ろして営業車を出られなくする役目をした。スト中は収入がなく、建設現場や映画のエキストラのアルバイトに行きましたよ。
僕は嘱託も含め78歳まで働いた。今の天皇陛下は80歳を越えても慰問を行なったりいろんな仕事をせなあかん。本当に大変やったと思いますね。(聞き手・吉永周平)